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南九州の大人伝説についての私的考察(中間報告)

こんにちは、あずまよりこです。

これまで東方、イラストと私の趣味に関する記事を投稿してきた当ブログですが、今回は私のもう1つの趣味である歴史についての記事をお送りしたいと思います。

タイトルの通り「南九州の大人伝説についての私的考察」ですね。

長文且つ初心者の穴の多い考察ではありますがぜひ御覧ください。

 

 

はじめに

前置き

まず前置きになるのですが、本題とはほとんど関係ないので興味がない方は飛ばして頂いて構いません。

 

そもそもこれは奈良大学主催の第17回全国高校生歴史研究フォーラムへ投稿しようと思っていた内容でした。しかし、調べ始めた時期が遅かったこともあり、時間的に締め切りまでに満足なクオリティでのレポート提出が不可能であると判断したため今回このブログ内の記事として発信することにしました。

今回の記事の内容もあくまで研究の途中経過であり、まだ確証のない一個人の考察であることにご留意ください。

また、こういった形式での文章を書くことが少なく、読みにくい構成になっている可能性が高いです。申し訳ありません。

 

研究のきっかけ

とある事情により南九州の大人伝説、特に鹿児島北東部から宮崎南西部辺りに伝わる「弥五郎どん伝説」というものについて調べる機会がありました。弥五郎どんというのは簡単に言えばその地に伝わる伝説の巨人なのですが、そのモデルとなった人物には諸説あり「隼人の反乱時の隼人の首領説」や「武内宿禰説」等があったのです。

しかしここで疑問が生まれます。隼人の反乱は朝廷に対して行われたものであり、その首領がモデルなら朝廷の敵がモデルであることになります。ですが武内宿禰という人はこれまた伝説の人物ではあるのですが、簡単に言えば何代もの天皇に仕えたとされる人です。つまり武内宿禰がモデルであるなら朝廷の忠臣がモデルであることになります。現状隼人の首領説が有力とされているようですが、何故朝廷の敵と忠臣という真逆の存在がモデルとして伝わっているのかが気になった為調査を開始しました。

 

弥五郎どん祭りとは

早速本題に…と言いたいところですが、先述した弥五郎どん伝説の説明だけでは足りていない部分があるのでさらに簡単にですが補足します。

まず、弥五郎どん伝説と関連する祭りとして「弥五郎どん祭り」というものがあります。今回弥五郎どんの起源を探るにあたってこの祭りも重要になってくるのです。

 

まず、弥五郎どん祭りというのは1ヶ所で行われている祭りではなく宮崎県都城市の的野正八幡宮、鹿児島県曽於市の岩川八幡神社、宮崎県日南市の田ノ上八幡神社の3ヶ所で毎年11月に行われている行事です。

それぞれ県指定無形民俗文化財に指定されており、鹿児島県では鹿児島市のおはら祭り、志布志市のお釈迦祭りと並ぶ県下三大祭りの1つとされています。

それぞれの神社で細かい違いはありますがおおよそ弥五郎どんという伝説の人物を模した3~5mほどもある巨大な像を市民らが持ち、街を練り歩くといった行事です。

 

約900年の歴史があると言われており、詳しいことは後述しますが、飛鳥時代の隼人の反乱での隼人の戦死者の霊を鎮めるための放生会が起源であると言われています。

放生会とは、インド由来の宗教儀式で捕獲した鳥獣や魚を野に放し、殺生を戒めるものです。

 

今回の考察を読むにあたってはとりあえず弥五郎どん伝説と関連する祭りがあり、3箇所で行われているということがわかっていれば大丈夫かと思います。

詳しいことが知りたい方は「弥五郎どん祭り」と検索すれば記事が多く出てきますのでそちらも見てみてください。

 

仮説

ようやく本題です。

今回の調査を行う前に軽くWikipediaで弥五郎どん伝説や弥五郎どん祭りについては調べていました。先述した通りそれについて調べる機会があったからです。

「弥五郎どんは人間達とは概ね友好的な関係であった」「720年の隼人の反乱後に隼人の霊を供養するために行われた放生会が祭りの起源」とあるように、この説明だと隼人側の人間がモデルだと言われた方がしっくり来ますし、武内宿禰説が真実だとするには疑問点が多くあります。

なのでやはり史実や伝承から考えると隼人の首領説がやはり有力であろうという仮説を立てました。しかしその一方で、武内宿禰がモデルであるというのは1つの説として伝わっているのは事実なのでどこからその伝承が来たのかということまで調べてみる必要があると感じました。

 

 

調査

参照文献について

まずはやはり過去の記録を探り、それぞれの伝承がどこから伝わりどのくらい信用できそうかなどを考える必要があります。

そのためには文献を参照にするのが手っ取り早いでしょう。特に古い文献に関しても国立国会図書館デジタルコレクションなどで一部は閲覧することはできるのですが、私は古文書を読む技術をあまり持ち合わせていません。

なので、古い文献に関しては調査中に発見した「岩川の弥五郎どん調査報告書」という書籍内に掲載されている古文書からの引用を参考にさせていただきます。

古文書の引用表記につきましては私自身が読むことが出来た場合国立国会図書館デジタルコレクションにて確認した文献を元に、できなかった場合は上記書籍内での表記を元にしています。

但し、単位や年号、地名に関してはわかりやすくするために現代での単位表記や西暦、地名での表記も併記しています。また、古文書内でルビが振られている場合引用内でも表記しましたが、文字が小さく潰れていることがあるため、私が見てこの字だろうと推測したものであることに注意してください。

その他にも数冊の書籍やWebサイトを参考にさせていただきましたがそれに関しましては本記事の最後に参照文献としてまとめています。

 

 

文献を見て情報を整理しよう

前置きも済んだところで早速文献を見て情報を整理していきます。

ここで見たいのはおおよそ「どのような伝承が記述されているか」「祭りに発祥時期に関しての記述はあるか」といったところです。

もしこの発祥が720年の隼人の反乱から年月がかなり経過した後のことであれば、中央の支配が完全に及んでしまい隼人の霊を鎮める放生会から朝廷の忠臣である武内宿禰をモデルにした人物を主役に据えた祭りへと変化していてもおかしくないと思われます。

ということでそれぞれの記述を見ていきましょう。

上記の2つの項目に加え気になった点があれば書いていきます。

また、最後に記述をまとめて考察するのでこの項では考察に使用した文献の引用と簡単な補足だけをします。

 

的野正八幡宮での弥五郎どん祭りについての記述

まず、PhotoMiyazakiというサイトにて大まかな内容が記述されているのでそちらを見てみましょう。

養老4年(720年)、大隈、日向の隼人らは中央から派遣された初代大隈国守の殺害して叛乱を起しました。(隼人の乱と呼ばれている。)
隼人軍は苦戦の連続で、圧倒的な兵力を持つ政府軍の前に力尽き、隼人の城は次々に落ちて大変いたましいものとなりました。
隼人の首領、弥五郎をはじめ犠牲なった1,400余名の隼人族の怨霊をおそれた大和朝廷は、全国で放生会を行わせました。
放生会で隼人俗の首領「弥五郎どん」の大きな人形とつくり、その霊を慰めるようになったのです。
神仏習合の八幡の名残りが現在の南九州の八幡神社で行われている「弥五郎どん祭り」なのです。

(中略)(以下現地案内板より)

これが現在語られている弥五郎どん祭りの発祥の有力な説です。

 

また、天保14年(1843年)にまとめられた三国名勝図会の中には的野正八幡宮、岩川八幡神社での弥五郎どん祭りについての記述があります。

以下は的野正八幡宮についての記述です。

正祭十月二十五日、此祭日、(中略)神輿を守り下る、是を濱殿下りといふ、中の神輿を第一と定め、儀衛キヤウレツ舊式あり、且大人彌五郎と呼で朱面を被ふり、刀大小を佩きたる、一丈(約303cm)餘の偶人ニンギヤウを作り、四ッ輪の車に乘せ、十二三歲の童子衆多アマタの人數にて、行列の先きに推す、上古大隅の隼人を征討の故事なりといへり、其權輿ハシメ詳かならず、また其儀衛の中、多くの武具を用ゆ、是は北郷忠相、當邑を領ずるの時始るといひ傳え、昔は鏑流馬もありし

最初は祭りがどのようなものかを簡単に語っている文章ですが、PhotoMiyazakiの画像を見て分かる通りこの時代からほとんど祭りの内容が変わっていないことがわかります。(赤いお面を被っていて子供達によって引かれている。また、流鏑馬に関しては現代でも復活はしていないようです。)

そしてここで注文したいのが後ろの文、大隅の隼人征討の故事だと言われているが起源は詳細ではないとのことです。

PhotoMiyazaki内(元々は現地の案内板での記述ですが)では定説のように語られていますがあくまで有力な説であるという点に注意したいところです。

また北郷忠相がこの村(三国名勝図会で山之口(今の宮崎県都城市山之口町辺り)について記述されている項目での話なので恐らくその周辺)を支配していた時に始まったとありますが、その前の文との繋がりを考えるとこの祭りが始まった時期ではなく弥五郎人形を引く行列の中で武具を使い始めたのがその頃だと読めるので恐らくそちらの方でしょう。

北郷忠相のが山之口を支配していたのは1530~40年以降だと思われるので、仮に祭りそのものがその頃始まったとなれば900年とはかなりの誤差がありますし。

また、実際には確認できていないのですがPhotoMiyazaki内の記述によると「的野神社神官定極帳簿」という文献に後に武内宿禰説も浮上したといった内容が書かれているようです。

 

岩川八幡神社での弥五郎どん祭りについての記述

岩川八幡神社についての記述も見てみましょう。

こちらも、PhotoKagoshimaというサイトにて大まかな内容が語られています。

弥五郎どん祭りは、非業の死を遂げた隼人の霊を鎮めるために行った放生会(ほうじょうえ)という祭礼と農村祭りのホゼ(農年祭)が結びついたのではと言われております。
弥五郎どんの浜下り祭事は「王の神幸」の行事と思われるが、弥五郎どんを先頭に行列が続きます。
おこの神幸が八幡神社放生会(ほうじょうえ)とつながり、また時代と共に次第に偶像化し、巨人崇拝ともつながって大きな威巌のある弥五郎どんとなり、隼人の首領とも言われています。
別説には弥五郎どんは、6代の天皇に仕えたという伝説上の人物である武内宿禰(たけうちのすくね)とも言われています。
(西暦720年大隅隼人の反乱は1年を越える戦いで、隼人がおびただしい戦死者を出して大和朝廷に平定された。武内宿禰はその朝廷側の人物である)
弥五郎どんは、今では五穀豊穣の祈願や人々を守ってくれる守護神として尊崇を集めています。(現地案内版)

こちらでは先程明確にはなかった武内宿禰についての記述があります。

 

また、的野正八幡宮と同じく三国名勝図会からの記述もあります。

中島村にあり、萬壽二年(1025年)、城州(山城国=京都府辺り)岩淸水八幡宮を隅州岩川(現在の曽於市大隅町岩川付近か)へ勸請せしに、其後兵亂の時、當社の寶品等を賊徒に奪はれて、𮕱廢せしを、天文四年(1535年)、檀越藤原重忠、當地頭伴兼󠄁豊、造立せるの棟札あり、祭祀十月五日、其日華衣より一町許距れる處に、濱下の式あり、大人の形を造て先拂とす、身長け一丈六尺(約485cm)、梅染單衣を著て、刀大小を佩ひ、四輪車の上に立つ、此人形は土人傳えて、大人彌五郎といひ、また武內宿禰なりといふ、

中島村というのはどこかよくわかりませんでしたが、このサイトを参考にしたところ、どうやら中之内村(現在の曽於市大隅町岩川の一部)のことを指していそうです。

要は1025年に京都から岩川に分社を作り、その後の戦の混乱の中で宝を奪われ衰退していたところ1535年に藤原重忠、伴兼豊らによって再興されたということらしいです。

先程引用したPhotoKagoshima内では、「約900年の伝統を持つ祭りです。」との記述がありました。また、他の記事をあたってみてもおおよそそのくらい続いているとの記述が見られますが、この記述を見る限りでは、岩川八幡神社の創建頃から始まったということでしょう。

そして、この文献内でも武内宿禰に関しての記述があります。

 

また明治4年(1871年)の薩隅日地理纂考では

(略)是ヲ大人弥五郎ト号シテ、熊曾梟師ガ形状ヲ模セルナリトイフ

といった記述もあります。

熊曾梟師というのはクマソタケルのことですが、この人物が出てくるのは第12代天皇である景行天皇の時代です(クマソタケルはその息子である日本武命に退治されたとされる)。ですが多く語られている伝承内での隼人の反乱が起きたのは720年、つまり第44代である元正天皇の時代です。つまり(あくまで形状を模しているだけでモデルとは言っていないが)隼人の首領や武内宿禰とはまた別の説ということになりそうです。

 

更に、「日向国 諸県の伝説」という書籍には以下のような記述が見られました。

第十二代景行天皇の御代、火の国(熊本県)の球磨田彦と古日向(南九州・宮崎と鹿児島の両県)の隼人が叛しめ王命に服しなかったので、これを親征されたところ、隼人は大人彌五郎といって後の大隅国の加治木におり、その形は鬼の如く、上井城にたてこもって大石や丸太を落として大いに王軍を悩まし奉ったという。
天皇はその彌五郎を謀略によって退治されたが、その後その亡霊の祟りが多く発生したので、朝廷でも放生会を行い慰霊供養につとめられた。そして、この地方でも祭っているのが岩川八幡の大人形であるという。

これは、先に上げたクマソタケルの話よりも少し前の話である景行天皇本人による征討伝説のことだと思われます。

しかし、これもやはり720年の隼人の反乱とは時代が違います。

また、この伝承によると景行天皇によって隼人は退治されその後祟りが起きたため放生会を行ったとされています。

次の項で詳しく語りますが、720年の隼人の反乱後にも不作や疫病が流行っています。

景行天皇時代の伝承と720年の史実が重なっているのは興味深いところがあります。

 

田ノ上八幡神社での弥五郎どん祭りについての記述

最後に田ノ上八幡神社についての記述です。前2つと同じくPhotoMiyazakiでの記述を見てみましょう。

養老四年(720年)2月29日 大隈、日向の隼人らは初代大隈国守・陽候史麻呂を殺害、叛乱を起こしましたが、圧倒的な兵力を持つ政府軍の前に隼人の城は次々に落ち、最後迄抵抗し続け隼人達も、ついには戦死、捕虜となったのです。

(中略)
その後、宇佐地方では作物の不作、疫病が流行しました。
これは 「隼人の乱でたくさんの反乱軍を殺した報いだ」 として 「霊を慰めるため放生会をすべし」 と宇佐八幡も託宣がありました。神亀元年(724)の事です。

隼人族の首領・弥五郎をはじめ犠牲となった、たくさんの隼人族の怨霊を恐れた大和朝廷は全国で放生会を行わせました。その名残の一つが、現在の南九州の八幡神社で行われている 「弥五郎様」「弥五郎どん」などの祭事です。

宇佐地方とは現在の大分県辺りのことです。

先述した720年の反乱後の不作や疫病とはこの事です。

724年といえば聖武天皇が即位した年なのですが、実際この頃非常に飢饉や疫病が多かったようです。

 

託宣があったという宇佐八幡宮でもこのように伝わっています。

『八幡宇佐宮御託宣集』(以後『託宣集』という)には、8世紀のはじめころに起きた隼人の反乱を制圧するため、八幡神を神輿(みこし)に乗せ、宇佐の人々も参加されたことが記しています。

神亀元年(724)には「隼人の霊を慰めるため放生会をすべし」との託宣があり、天平16年(744)八幡神は和間(わま)の浜に行幸され、鎮圧された隼人の霊を慰めるため、蜷(にな)や貝を海に放つ「放生会」の祭典がとり行われました。これが「放生会」の始まりです。

少なくとも744年には放生会が始まっていたようです。

また、八幡神を神輿に乗せたというのは現代の弥五郎どん祭りに似ているところがあるように思えます。

 

そして、この神社に関しては、三国名勝図会を編纂した薩摩藩ではなく飫肥藩に位置していたことからか、三国名勝図会内での記述は見られず、その代わりに飫肥藩家老であり宮崎県地誌編集係であった平部嶠南が明治9年~17年(1876~84年)にかけて実地調査をして作成した「日向地誌」での記述を見てみます。

その中では、祭りの概要と共に「極テ古俗ナリ」と記されていました。

また、武内宿禰や稲積弥五郎であるという説も記載されていたようです(未確認、Photo Miyazaki内での記述)。

古俗というと古いしきたりといった意味で曖昧な表現ですが、田ノ上八幡神社の創建年を考えるとやはり11~12世紀頃の発祥と思われます。

 

考察

上記を踏まえて私の考察をまとめていきたいと思います。

結論から言うと「弥五郎どんは様々な伝承や史実が組み合わさってできた存在でありモデルは1つではない」というのが今回の私の考えです。

まず、744年頃からの放生会が起源であると記述されていますが、その後の農村祭りと結びつき今の弥五郎どん祭りになっていったとも言われています。

約900年の歴史という記述から神社の創建頃にこの2つが結びつき現代の弥五郎どん祭りの原型になったのだとすると、8世紀後半から11世紀初頭までの空白の期間があります。

2つの儀式がこの300年程の間に組み合わさったのであれば伝承も混ざってしまったというのも不自然ではないのではと思いました。

また、ここで注文したいのが岩川八幡神社の祭神の一柱に武内宿禰命が存在することです。

神社の祭神を主役に据えた祭りというものは多くの神社で行われており、農村祭りで祀られていた存在の1人に武内宿禰命が存在し、後に放生会と混合されたのだと考えます。

 

今後の課題

 さて、一旦の結論は出ましたがやはり確証を得るには足りない部分が多くありました。

以下は今後弥五郎どん祭りの発祥に関して更に調べておくべき事柄等をメモとして残しておきます。

・岩川八幡神社の祭神の一柱に武内宿禰命が存在している理由

・各神社を訪問し、祭りに関連する史料が存在しないかの確認

・ホゼ(農年祭)の歴史についての調査

・各神社の弥五郎どんの容姿が大幅に異なる理由

 

最後に

 今回は、南九州の大人伝説についての私的考察と題して弥五郎どん祭りの主役である弥五郎どんの発祥について調べてみました。

初心者だからと言い訳するのも良くないですが、非常に稚拙な面も多くあった調査ですので、今回の中間報告から得た新たな課題に関して調査を重ねることにより確実性の高い結論を得られるよう尽力していきたいと思います。

また進展があれば当ブログにて発表していきます。

ここまで読んでくださった皆さんに感謝の意を示すと共に、本記事を終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

 

参考文献

末吉郷土史「第三版」 (昭和62年12月1日 末吉町郷土史編集委員会)

岩川の弥五郎どん調査報告書 (令和5年3月15日 岩川の弥五郎どん調査委員会)

日向国 諸県の伝説 第二版 (昭和55年10月1日 瀬戸山計佐儀)

三国名勝図会 巻之31~36 (明治38年 国立国会図書館デジタルコレクションより)

弥五郎どん - Wikipedia

弥五郎どん祭り|曽於市大隅|鹿児島観光 (pmiyazaki.com)

山之口弥五郎どん祭り(やごろうどんまつり) (pmiyazaki.com)

日南市飫肥・田ノ上八幡神社弥五郎様(やごろうさま)祭り (pmiyazaki.com)